真言宗豊山派
中高山 花光院 城遍寺
〒278-0001千葉県野田市目吹473番地
本尊:不動明王
住職:現住職 小野寺 光洋
沿革
「元禄4年(1691)法印祐海によって開創」とあるが、もと熊野神社別当で、境内にまた延宝3年(1675)刻銘の念佛供養塔その地創建後の経由を示す塔碑が多数現存している(金石資料集参照)ので創建は若干遡るものと思われる。
四国霊場第一番阿州笠和山霊山寺写。
『野田市宗教施設総覧』『野田郷土史』より
そもそも本院の開山はそのよるところ不詳なれども熊野神社別当として天正年間(1573~1595)と伝えあり
『花光院再建記念』より
現在の本堂は平成16年に完成。庫裡客殿は平成19年に完成。
平成19年10月28日に落慶法要。
1979年 山門
1980年代 境内
2007年 山門
元禄11年(1698)創建
明治41年再建
伊弉冊命、大山祇命(元日枝神社祭神)
沿革
「創立元禄11年(1698)10月15日、明治5年11月村社となる、当時の氏子43戸、明治41年1月20日、同所無格社日枝神社を合祀す」とあり、また境内に元文5年(1740)の庚申塔、明和9年(1772)の青面金剛等多数の塔碑があるので、創建はおおむね妥当であろう。社殿は棟札の写によれば、明和5年戌子9月吉祥日、別当華光院遷宮導師鏡寛代に三社権現宮として造立されたものである。
『野田市宗教施設総覧』より
目吹の三逼というところに大悲深重尊像供養塚の祠があり、俗に「木倉観世音」と呼ばれています。この地が目吹城の址ということもあって、毎年八月十日の縁日になると、近在から集まる多くの老若男女でにぎわいます。里人たちが五色や三色の布で飾りたてた馬にまたがって、三々五々かけまわるのが呼びものになっているからです。
治承四年(一一八〇)に源頼朝が平氏追討のため伊豆に挙兵した時、近江源氏の佐々木一統が下知を受けて関東に向ったことがあります。この戦いで、佐々木四郎高綱が数度にわたって手柄をたてていることはよく知られています。世が移り時が代わり、その十二代目の子孫で佐々木義信という人が江州小島に住んでいました。時あたかも永禄年代(一五五八~六九)天下は近畿をはじめとして麻のごとく乱れていました。
彼は織田信長と並び称される武将でした。信長が三好修理大夫・松永弾正らを討つために小島に援助を求めた時、義信は源氏の嫡流を任じていたため、平氏の流れをくむという信長の要請には応じなかったのです。
義信は近江を去り、その領地であった下総国葛飾郡目吹郷に来て 鎌倉権五郎景政が築いた古城を修築して目吹城となし、ここに移り住みました。義信は城のほとりに三社大権現を勧請(かんじょう)して氏神として祭りました。
佐々木家には、頼朝から賜わったといわれる名馬「生食」の鞍が家宝として伝わっていました。馬が死んだ後、馬鞍だけが保存されていたのです。ある晩義信の夢枕に遠祖高綱の神霊が現われて「馬鞍を重宝とすると共に 城のほとりに馬頭観音を安置せよ」とお告げになりました。義信は驚き、翌日一心に祈りをあげていました。すると、にわかに紫色の雲が天にたなびき 大地が鳴り響いて馬頭の尊像が出現したのです。
義信はこれを普陀落堂に安置して深く信仰しました。その後、人々が病気や災難について願いをかけますと、その霊験は実にあらたかでした。そのため、里人も深く信仰するようになったのです。
これより先、佐々木義信は甲斐の武田家と約束をとりかわしていたのですが、天正十年(一五八二)に武田四郎勝頼が天目山で一朝の露と消えてからは義信も深くこの世の無情を感じ、自ら髪をおろし染衣の身となり「義信法師」と称して猿島郡小山村佐々木寺地蔵尊に移り住みました。それから何年かの後、三社宮の別当花光院の住職がこれらの記録をもって馬頭観音の縁起としたと伝えられています。
元禄十五年(一七〇二)十月二日 二百余人の講中の人々の手によって石仏が造立され更に享保十四年(一七二九)三月十日御堂が建立されました。その後も世々の講中により籠堂建設本堂その他の修築管理及び年々の行事も華やかに行われたことが記録にあり信者には宏大なご利益が絶えることなく続いております。このたびの事業も講中二百余名の尊いご協力により完成いたしました。
この輝かしい歴史と由緒を後世に伝えるために記念碑を建立しました。
『木倉観世音由来碑』より
中郷霊場の創設の時期その他は不明。
春の四月になると南大師遍照金剛の旗を立て鈴を鳴らし、各札所で般若心経と御詠歌を奉納して歩くお遍路さんの列が続いています。
明治6年2月11日
現在は野田市立東部小学校
明治6年 | 目吹村寺院「花光院」に中山小学校として開校(2月11日) |
明治26年 | 目吹小学校は「旭第一尋常小学校」と改称、分校横内小学校は「旭第二尋常小学校」と改称 |
明治31年 | 旭第一、第二を合併し、旭尋常小学校と改称 |
明治45年 | 高等科設置が認可され、千葉県東葛飾郡旭尋常高等小学校と改称 |
昭和16年 | 「国民学校令」により千葉県東葛飾郡旭村国民学校と改称 |
昭和22年 | 旭村立旭小学校と改称 |
昭和25年 | 市制施行に伴い野田市立東部小学校と改称 |
『野田市立東部小学校ホームページ』より